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甲府地方裁判所 昭和48年(行ウ)4号 判決 1977年3月31日

原告

後藤博子

原告

後藤知明

右親権者母

後藤博子

右原告両名訴訟代理人弁護士

堀内清寿

被告

山梨県教育委員会

右代表者委員長

三澤誠

被告

山梨県人事委員会

右代表者委員長

小野熊平

右被告両名訴訟代理人弁護士

笠井治

主文

1  被告山梨県教育委員会が昭和四四年三月三一日付で後藤昇に対してなした懲戒免職処分はこれを取消す。

2  原告の被告山梨県人事委員会に対する請求を棄却する。

3  訴訟費用はこれを三分し、その一を原告らの負担とし、その余を被告山梨県教育委員会の負担とする。

事実

第一  当事者の求める裁判

一、原告ら

「1被告山梨県教育委員会が昭和四四年三月三一日付で後藤昇に対してなした懲戒免職処分および被告山梨県人事委員会が昭和四八年三月八日付でなした、右懲戒免職処分を承認する旨の裁決は、これを取消す。2訴訟費用は被告らの負担とする。」との判決。

二、被告ら

「1原告の請求を棄却する。2訴訟費用は原告らの負担とする。」との判決。

第二  当事者の主張

一、請求の原因

(一)  亡後藤昇は、後記懲戒免職処分をうけた当時山梨県立吉田高等学校校長の職にあつた。

(二)  ところが、被告山梨県教育委員会(以下単に被告教育委員会という。)は、昭和四四年三月三一日付で右後藤昇に対し懲戒免職処分(以下本件懲戒免職処分ということがある。)をし、同年四月一日後藤昇にその旨の通知をした。

(三)  これに対し、昭和四四年五月二一日、被告山梨県人事委員会(以下単に人事委員会という。)に対し、審査請求をしたが、後藤昇は昭和四五年三月二八日死亡した。そこで、その後は後藤昇の妻である原告後藤博子、長男である原告後藤知明が右不服申立を承継したが、被告人事委員会は、昭和四八年三月八日付で後藤昇に対する前記懲戒免職処分を承認する旨の裁決(以下本件裁決ということがある。)をし、その頃原告らに通知してきた。

(四)  しかしながら、本件懲戒免職処分および本件裁決はいずれも違法であるから、その取消しを求める。

(五)  なお、原告らが、本件裁決の取消しを求める理由は、右裁決は採証法則に違反する証拠の認定に基づくもので、採証法則違反もしくは事実誤認のいずれかにより違法である点にある。

二、請求の原因に対する被告らの認否と主張

A  認否

(一) 被告教育委員会

1 請求の原因(一)は認める。

2 請求の原因(二)も認める。

3 請求の原因(三)も認める。

4 請求の原因(四)は争う。

(二) 被告人事委員会

1 請求の原因(一)は認める。

2 請求の原因(二)も認める。

3 請求の原因(三)も認める。

4 請求の原因(四)は争う。

5 請求の原因(五)について

原告が本件裁決の取消しを求める理由は、結局原処分の実体的違法を理由とすることとなるから、行政事件訴訟法第一〇条第二項に反する。けだし、原告は「採証の法則に違反する証拠の認定」を裁決の取消しを求める理由としているが、その意味が「採証法則に反してなした証拠の採否」ということであれば、採証の法則に反した事実を具体的に指摘すべきであるのに何ら具体的指摘をしていないし、また「採証の法則に違反する証拠の認定」という意味が、「採証法則に反してなされた証拠による事実の認定」という意味だとすれば、これは畢竟「事実誤認」の意味となり、結局原処分の実体的違法を理由とすることとなるから、行政事件訴訟法第一〇条第二項に反することとなるのである。

B  主張

(一) 被告教育委員会

1 後藤昇に対する懲戒免職処分とその理由

(1) 昭和四四年三月当時、亡後藤昇は、山梨県立吉田高等学校校長であつたが、被告教育委員会は、昭和四四年三月三一日、後藤昇に対し、同人を懲戒免職処分に付する旨の発令をし、その旨の人事発令通知書を後藤昇に送達した。

(2) 右後藤昇に対する処分説明書記載の処分事由は、左記のとおりである。

「被処分者は、昭和四四年度高等学校入学者の選抜にあたり、部下職員に対して不正な行為を指示し、公正を欠く合格者の決定を行なおうとした。この行為は地方公務員法第二九条第一項第一号、第二号および第三号に該当し、職務上の義務に違反し、その職の信用を傷つけ全体の奉仕者たる教育公務員にふさわしくない行為である。よつて地方公務員法第二九条第一項の規定により免職の処分をしたものである。」

2 不正事件の経過

(1) 昭和四四年度山梨県公立高等学校入学者選抜実施要領に基づく昭和四四年度山梨県立吉田高等学校(以下単に吉田高校という。)入学者選抜のための入学志願者に対する学力検査は同年三月一一日、一二日の両日に実施されたが、後藤昇は、右入学者の決定に当り、翌三月一三日午後三時、在校中の教頭小林豊および定時制主事小林美知に対し、校外より電話で特定受験者のために何らかの不正な修正を講ずるよう指示した。

(2) そこで、右指示を受けた小林豊および小林美知は、思案の末、同日採点ずみの採点カードに不正な行為(点数水増し)を加えたが、同月一四日右事実が同校教職員らに知れたため、合格の不正決定に至らなかつたのである。

3 処分手続

被告教育委員会は、昭和四四年三月二二日、職員分限懲戒諮問委員会に対し関係職員の懲戒について諮問したところ、同年三月二三日付で同委員会の答申があつたので、これに基づき、同日開催の被告教育委員会で慎重審議した結果、前記職員分限懲戒諮問委員会の答申どおり、後藤昇を懲戒免職に付したのである。

4 以上のとおりで、本件懲戒免職処分は適法である。

(二) 被告人事委員会

1 昭和四四年五月二一日、後藤昇より被告人事委員会に対し本件懲戒免職処分についての不服申立があつたので、その後被告人事委員会は、不服申立人および処分者(被告教育委員会)の双方より証拠資料等の提出をうけ、地方公務員法第五〇条第一項に基づき、右事案について公開口頭審理を一一回にわたり実施した。

2 この間、昭和四五年三月二八日、不服申立人後藤昇が死亡したので、同人の妻である原告後藤博子と長男である原告後藤知明が手続を承継した。

3 被告人事委員会は前記のような審理の結果、原処分を承認することとし、昭和四八年三月八日、原処分を承認する旨の裁決をし、同月九日当事者双方に裁決書を送達したものである。

4 よつて、被告人事委員会のした本件裁決には何らの違法もなく、裁決は適法である。

三、被告らの右主張(二B)に対する原告らの認否反論

(一)  被告教育委員会の主張に対し

1について

(1)は認める。

(2)も認める。

2について

(1)イ (1)のうち、昭和四四年度山梨県公立高等学校入学者選抜実施要領に基づく昭和四四年度吉田高等学校入学者選抜のための入学志願者に対する学力検査が同年三月一一日、一二日の両日行なわれたこと、当時小林豊が吉田高校教頭であり、小林美知は同校定時制主事であつたことは認めるが、その余は否認する。

ロ 後藤昇は特定受験者のために何らかの不正な修正を講ずるよう小林豊、小林美知に指示したことはない。このことは、次のことからも明らかである。すなわち、当時吉田高校は創立三〇周年記念事業として三、〇〇〇万円の寄附金を受けて図書館の新設を実現したが、比較的多額の寄附者の子弟たる受験者の中に成績の悪い者が一〇名位いたため、昭和四四年三月一二日、後藤昇は校長としてこの処置をどうするかについて教頭小林豊と語合つたことはあるが、その結果職員会議に計つて合否を決定しようということになつたのである。また、後藤昇は、従前より健康を害しており、昭和四三年七月一〇日から同年九月二七日まで心筋梗塞、心臓喘息および高血圧で慶応義塾大学附属病院に入院治療を受けたことがあり、昭和四四年三月一三日は前日来の大雪のため特に病状が悪化し、ために主治医黒部力夫の往診をうけ心筋梗塞、腎硬化症、腎性高血圧症と診断されて終日自宅で安静療養中であつたので、電話で不正手段による入学方法を指示するなどということは不可能であつた。さらに、本件点数水増しの対象となつたという三名の受験者の父兄より前記記念事業への寄附はなされておらず、後藤昇には右受験者を合格させるための不正指示をする動機はないのである。

(2) (2)の主張中、小林豊と小林美知が昭和四四年三月一三日採点ずみの採点カードに不正な作為(点数水増し)を加えたこと、しかし同月一四日右事実が吉田高校教職員に知れたため合格の不正決定に至らなかつたことは認めるが、その余は争う。

3 について

後藤昇が懲戒免職処分を受けたことは認めるが、被告教育委員会が慎重審議した形跡はない。この点については、被告人事委員会さえ本件裁決において「以上のとおり必ずしも十分といえない調査に基づき、諮問委員会および教育委員会の審議に一度も申立人および教頭ら三名の実行行為者が直接喚問を受けることなく、審議が急がれたことは事実であり……」と述べて審議の杜撰さを認めているほどである。なお、被告教育委員会は本件懲戒免職処分の理由たる事実の認定の証拠として昭和四四年三月二六日付小林美知の顛末書えているが、被告教育委員会が後藤昇を懲戒免職処分に付することをきめた昭和四四年三月二三日の後に作成されたものであるから、証拠とはなりえないものである。

4について

争う。

(二)  被告人事委員会の主張に対し

1は認める。ただし、実質的には慎重審議がなされていない。

2も認める。

3も認める。

4は争う。

第三  証拠関係<省略>

理由

第一被告教育委員会に対する請求について

一処分の存在と原告適格

請求の原因(一)ないし(三)は当事者間に争いがない。

二本件懲戒免職処分の適否

(一)  処分説明書記載の処分事由

事実欄第二、二B(一)1(2)の事実は当事者間に争いがない。

(二)  被告教育委員会による事実認定と懲戒手続――本件懲戒免職処分に至るまでの経過

1 昭和四四年度山梨県公立高等学校入学者選抜実施要領に基づく昭和四四年度吉田高校入学者選抜のための入学志願者に対する学力検査が同年三月一一日、一二日の両日実施されたことは当事者間に争いがない。

そして、<証拠>をあわせると、次の事実を認めることができ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

(1) 昭和四四年三月当時山梨県教育長であつた日向誉夫は、昭和四四年三月一五日、同県教育庁中島総務課長から「昭和四四年度山梨県公立高等学校入学者選抜実施要領に基づく昭和四四年度吉田高校入学者選抜のための学力検査が同年三月一一日、一二日の両日実施されたが、入学者の決定にあたり採点カードの改ざんが行なわれ、合否の不正決定が行なわれようとした」旨の報告を受け、同月一六日吉田高校の職場代表三名(前記中島課長への情報提供者であつた)を招き、直接口頭で事件の経緯を聴いた。そして、同夜吉田高校教頭小林豊の自宅に電話し、同人から事情を聴取したが、同人の述べるところによると、「小林豊と吉田高校定時制主事の小林美知が、同校校長の後藤昇からの電話による指示で採点カード等に修正を加え不正に特定の受験者を入学試験に合格させようとしたが、他の教職員に発覚し失敗に終つた」とのことであつたので、同月一七日当時春期の人事異動に関する作業を行なつていた甲府市内の旅館機山閣に後藤校長を招き、余人を交えずそれまで得た前記の中島課長や吉田高校の職場代表から得た情報と、小林豊からの電話による事情聴取の結果をふまえて後藤校長から事情聴取をしたところ、同人は指示したことを否定するのみで何ら積極的な弁明をしなかつた。そして、事態をなるべく穏便にとりおさめようと考えた日向教育長が、後藤校長は従前から心筋梗塞等を患つていて、前年夏には慶応病院に入院し、退院してからも回復がはかばかしくなく、当時も欠勤がちだつたということもあつたので、同人に対し、「一まず健康上の理由ということで休職したらどうか」と休職を願い出ることをすすめたところ、同人は「健康には自信がある」と述べて、休職勧告に応ぜず、話しは進展しなかつた。

そこで、翌一八日も同校長の出頭を求め、同日昼、教育庁教職員課長の曾根利重とともに取調べに当つたが、後藤校長はこの日も「自分は一切指示していない。小林豊と小林美知が勝手にやつたのだ」と述べて積極的な釈明を行なわなかつた点は前日と同様であつたが、曾根課長が「小林教頭と小林定時制主事の二人が勝手にやつたのなら二人を懲戒免職処分に付するより仕方がないだろう」と述べたところ、それまでは休職勧告に応ずる態度をみせなかつた後藤校長が急に態度を変え、休職勧告に応ずる旨述べた。そして、辞去する際も、曾根課長に対し、「寛大な処置をとつてもらつてありがとうございました。」と述べて帰つた(このとき日向教育長は電話の応待のため席を立つていた。なお、翌一九日、後藤校長より「四月一日より約一ケ年間休職いたしたく別紙診断書を添えお願いいたします」と記載した教育委員会宛の「休職願」と題する書面が県教育庁の管理主事上島行夫のもとに提出された。)他方、日向教育長は、三月一八日、県教育庁の右上島管理主事をして、甲府市内の旅館で小林豊、小林美知および吉田高校教務主任三浦寿雄の取調べに当らせ、同日三名からそれぞれ同日付の顛末書を徴収した。小林豊の供述と同人が提出した顛末書によると「昭和四四年度吉田高校入試に際し、同校三〇周年記念事業に関連し依頼者が多数あつたので後藤校長はじめ吉田高校幹部がその対策に苦慮していたところ、昭和四四年三月一三日、後藤校長より校外から電話があり、採点等の修正を指示され、定時制主事の小林美知と相談したうえ、答案や採点カード等の保管の任に当つていた教務主任の三浦寿雄から答案等を収納していたロツカーの鍵を借り受けて依頼の対象となつていた志願者中三名につき採点を修正した。ところが、翌一四日採点カードが改ざんされたことを職員の一人に発見されて問題化し、処理をしなおして結果としては不正に入学させようとする意図は失敗した」とのことであり、また小林美知の供述と同人の提出した顛末書によると「三月一三日、定時制志願者についての採点作業中後藤校長から電話があり、『今後の学校運営に支障のないよう全日制合格者の決定に関して教頭の相談に応ずるように』といわれ、夜に入り校長室で小林教頭、三浦教務主任とともに校長伝達の趣旨を生かすことを協議した結果、教頭から修正してほしいとされたカードとペンを与えられ、これに応じた」とのことであり、三浦寿雄の供述と顛末書によると、「学力検査の採点が終り成績がカードに全部記入された後、校長室にあるロツカーにカードをしまい帰ろうとしたところ、小林教頭からロツカーの鍵を貸してほしいと言われて鍵を貸したところ、小林教頭と小林定時制主事が校長の指示を受けたと言つてカードの点数を改ざんした」とのことであつた。

他方、その頃、教育庁より米山指導主事が現地に派遣され、教頭や教務主任等の調査に当つた。

(2) そこで、日向教育長等県教育庁幹部は、これらの調査結果からおすと後藤校長が電話で採点カードの改ざんを指示したことは間違いないと判断し、同月二二日開催された教育委員会にそれまでの調査結果を報告して事件の処理についてはかつたところ、懲戒諮問委員会に後藤昇、小林豊、小林美知、三浦寿雄の懲戒について諮問することになり、翌二三日右四名の処分について諮問した。その結果、後藤校長を懲戒免職、小林豊教頭と小林美知定時制主事を諭旨退職に各付することが相当という答申を得た。当日開かれた教育委員会は、右懲戒諮問委員会の答申に基づき、同月三一日付で後藤昇を懲戒免職に、小林豊と小林美知を諭旨退職に、さらに三浦寿雄を文書による訓告に付することと決定し、同時に監督不行届のかどで教育長の日向誉夫と教職員課長の曾根利重をも文書による訓告に付することとした。

2 ところで、被告教育委員会の決定は同委員会事務局すなわち県教育庁の前記調査結果に基づいてなされたものであることは右の経過の示すところであるが、日向教育長ないし曾根教職員課長は不祥事件の発生した学校の責任者に対する事情聴取として後藤昇に対する前記の取調べを行なつたものか、それとも後藤昇を同事件の容疑者として取調べをしたのかこれを確定するに足る証拠はない。たとい後者だとしても、日向教育長ないし曾根課長は後藤昇に対し、同人が前記不正事件においていかなる行為をしたという嫌疑をかけられているのかについて具体的に告知し、さらに教育委員会側が嫌疑の根拠としている資料の実質的内容を知らせるなどして、弁明と防禦の機会を与えたということを認めるに足りる資料はなく、かえつて<証拠>をあわせれば、被告教育委員会は後藤昇に対する本件懲戒免職処分を決めるに当つて小林豊と小林美知各作成の各顛末書を主要な事実認定の資料として用いたが、日向教育長や曾根課長が後藤昇の取調べをした時はまだ小林美知からは何もきいておらず、したがつて小林美知の主張する「後藤校長からの電話」については後藤昇に対してこれを確かめていないこと、三月一八日に小林豊、小林美知から顛末書をとつた後、再度後藤昇を取調べたことはなく、また取調べようとして連絡をとつたこともないこと、三月一八日に上島管理主事が小林豊、小林美知を取調べた結果の日向教育長への報告は同日の日向教育長と曾根課長の後藤昇に対して行なつた取調べの済んだ後になされており、したがつて日向教育長らの右取調べにあたつてはこの結果が勘案されておらず、したがつて後藤昇に上島管理主事の右取調べの内容が知らされることもなかつたことが認められる。

そうだとすると、仮に三月一七日および一八日に行われた後藤昇に対する事情聴取ないし取調べが同人に対する容疑事実の告知とみられるとしても、後述の公正な告知と聴問の手続が履践されたとは言い難い。

3 ところで、関係法規を通覧しても被告教育委員会がその所管に属する学校等の職員に対し地方公務員法第二九条に基づいて懲戒処分をする際どのような事前手続を履むべきかを明示した規定はない。したがつて、どのような方法と手続で事実を認定し、懲戒権を行使するかは被告教育委員会の裁量に委ねられていると解するほかない。しかしながら、「すべて職員の分限および懲戒については公正でなければならない」と定めた地方公務員法第二七条第一項の趣旨に鑑みると、被告教育委員会としては事実認定と処分の種類の選択について慎重な手続を経べきことは当然である。そうだからこそ、被告委員会としても自ら山梨県教育委員会事務局及び教育委員会の所管に属する学校その他の教育機関の職員の分限、懲戒、諮問委員会規程(昭和二七年九月八日山梨県教育委員会訓令甲第一号)を設け、懲戒事案を同規程の定める職員分限懲戒諮問委員会に諮問することとしていると考えられる。

さらに、懲戒処分の不利益処分としての性質に鑑みると、被告委員会が地方公務員法第二九条に基づく懲戒処分、とくに公務員にとつて極刑ともいうべき懲戒免職処分をするに当つては、事前に処分さるべき当該職員に問題とされている事件の内容を具体的に告知し、当局が嫌疑の根拠としている資料の実質的内容を知らせ、弁明と防禦の機会を与えること(以下右の手続を「公正な告知と聴問の手続」という。)は、イギリス法にいわゆる「自然的正義」(Natural Justice)の要請するところといえよう。そうだとすると、被告委員会としては、かりに当該職員に対し告知と聴問の手続を履践しても、実体的判断を左右するような弁明と資料が提出される可能性が全くないような特別の事情がない限り、公正な告知と聴問の手続を履践しないまま懲戒権を行使することは裁量権を逸脱するものといわなければならない。

そして、右のような特別の事情がないのに、公正な告知と聴問の手続を履まないまま懲戒処分がなされた場合には、懲戒処分の違法を招来すると考えるのが相当である。

(三)  実体的判断を左右するような弁明と資料が提出される可能性――特別事情――の存否

ところで、本件の場合、公正な告知と聴問の手続がなされなかつたことは前に述べたとおりであるが、右に述べたような実体的判断を左右するような弁明と資料が提出される可能性が全くないような特別事情があつたかどうかについて検討する。

1 確定できる前提事実――採点カードの改ざん

<証拠>をあわせると、次の事実を認めることができる。

昭和四四年度山梨県公立高等学校選抜実施要領に基づく昭和四四年度吉田高等学校入学者選抜のための学力検査(以下入試という。)が同年三月一一日、一二日の両日実施されたが、小林豊は同月一三日右の入試受験者の採点カード等を収納してあるロツカーの鍵を保管責任者である同校教務主任三浦寿雄から借り出し、右のロツカーから入試受験生についての採点カードをとり出し、同日夜同校校長室で同校定時制主事小林美知とともに右三浦教務主任同席のもと受験生三名の採点カードの点数等を改ざんした。

右認定を左右するに足りる証拠はない。

2 被告教育委員会の事実認定の疑問点

まず、<証拠>をあわせると、後藤校長は、昭和四四年三月一二日ころ、吉田高校校長室で、小林豊教頭および小林美知定時制主事と、校長をはじめとする教職員が入試志願者の父兄等から入学の依頼を受けた志願者数十名を入学志願者名簿から選び出し、赤丸を付してチエツクし、何とか依頼者の希望にそう方法はないか協議したが、結局は不正入学の方法はとらず、学校運営上どうしても必要なものがあれば合否判定の職員会議にはかつてきめることとしたことが認められる。

そこで、問題は、三月一三日に後藤校長が電話で前記採点カードの改ざんを指示したという被告教育委員会の事実認定になお解明すべき疑問点はないかどうかである。

(1) この点について、被告教育委員会の主張にそう証拠としては、成立に争いのない甲第二号証、同第三号証の一、二、同第七号証、同第一五号証、同第三四号証と証人小林豊、同小林美知の各証言が挙げられるが、右のうち甲第二号証と同第三号証の一、二、同第一五号証はいずれも右改ざんの実行行為者の作成にかかる書面であり、また甲第七号証と同第三四号証はいずれも被告人事委員会の公開口頭審理における右実行行為者の供述を録取した書面で、これらの書証、人証はいずれも行為者側のものであることに注目しなければならない。

(2) そこで吟味してみると、

(イ) 前記甲第二号証によれば、小林豊は、昭和四四年三月一三日、吉田高校中央職員室で校外から発信した後藤校長よりの電話を受け、「教頭、例の問題者について極力修正してみろ、その位のことができなくて教頭がつとまるか、美知が慣れているし、色気があるから二人でやつてくれ」と指示されたという。また、甲第七号証と証人小林豊の証言によれば、三月一三日午後三時ころ校外の校長から電話があり、「例の赤丸をつけたものについて極力なおしてみろ、美知がなれているから二人でやれ、いまそんなところでうろうろしないで旅館の金を出してやるから旅館でやれ」といつてきたという。しかしながら、成立に争いのない甲第七号証によれば、小林美知は、被告人事委員会の第二回公開口頭審理において、「三月一三日午後四時近く出勤、渡辺一二(事務職員)が取りついで、校長から私に電話があつた……『うるさいから逃げているが、あの記入した生徒のことを教頭と話合つて入れるようにしてくれ、夜校長室で、鍵をかけてやるように』といつてきた」と述べていることが認められ、小林美知の作成したものであることが当事者間に争いがない甲第三号証の二にもほぼ同趣旨の記載がある。

このように、後藤校長から指示されたという行為を行うべき場所について小林豊と小林美知の述べるところは全く異つており、指示の内容も具体性に乏しい。

(ロ) ところで、証人渡辺一二の証言によれば、吉田高校では校外からかかつてくる電話は、午前八時三〇分から午後五時一五分までの間は、すべて交換をとおしてしか通話できないことが認められるが、前記甲第七号証によれば、小林豊は、「同人に『校長よりの電話』をとりついだ者が誰であるかわからない」という。そして、成立に争いのない甲第一八号証、同第二二号証および原告後藤博子の本人尋問の結果中には、「後藤昇は、三月一三日は大雪による寒さ等のため持病の悪化が懸念されたので終日大月市の自宅にいて午後二時半ころから午後四時ころまで主治医の黒部力夫医師に往診して貰つており、他人に電話をかける状態になく、また実際どこにも電話をしなかつた」旨の部分がある。また黒部力夫の作成であることにつき当事者間に争いがない甲第三七号証と弁論の全趣旨により成立の認められる同第三九号証には、同人は三月一三日後藤昇をその自宅に往診した旨の記載があり、甲第三九号証には往診時間について午後二時半から午後三時半である旨の記載があり、また成立に争いない甲第九号証によれば、黒部力夫は被告人事委員会における公開口頭審理でも同旨の供述をしていることが認められる。

そうすると、これらの書証や人証の内容の信憑性について吟味を要することは勿論であるとしても、後藤昇にききただすことのないまま三月一三日三時ころ同人が小林豊に電話したと断定することには問題があるといわなければならない。

また、小林美知に前記「校長よりの電話」をとりついだといわれる渡辺一二の証言によれば、昭和四四年三月一三日午後四時半ころ定時制主事小林美知の登校前校外の何人からか交換をとおして電話がかかつてきたこと、同人がきいた右電話の主の通話の口調と内容は、「主事さんいますか、何時ころおいでになるか」というものであつたが、四時半ころ、同一人物とおぼしき人から再び電話があつたので、その時は、登校した小林美知に代わつたところ、小林美知は、「ああそうですか、はいはい、わかりました」という応答をしていたこと、渡辺一二によれば、電話の声は「後藤校長であるような気もするし、ないような気もする」ものであつたこと、ところが、渡辺一二は、約二年も後藤校長のもとで吉田高校の主事(事務職員)として働き、後藤校長としばしば仕事上の接触があり、後藤校長の声を熟知していたこと、後藤校長は通常小林美知についてその在校かどうか等を渡辺一二に尋ねるときは、「美知いるか、主事いるか。」というような口調で話していたことが認められ、また右渡辺一二の証言ならびに弁論の全趣旨によれば、右の電話を交換受話器で受け渡辺一二にとりついだのは庶務課の女子職員であるが、その女子職員も電話の声が後藤校長の声であるかどうかわからなかつたことがうかがわれる。しかも、渡辺一二の証言によれば、後藤校長は、小林美知が通常登校する時間が午後四時半ころであることを知つていたことが認められ、また前記甲第三号証の二によれば小林美知は「校長よりの電話」に対して抵抗しようとしたが電話がきれたとされるが、右渡辺一二の証言によれば、小林美知の通話先との応答は前記のようなものではなかつたことが認められる。

右に述べたようなことをあわせ考えると、小林美知に校外からかかつてきた電話の主が後藤校長であつたかどうかについて、なお疑問があるといわなければならない。

(ハ) 証人小林豊の証言中には、「後藤校長から父兄等より入学を依頼されている者として示され受験者名簿に赤丸を付した約五〇名につき、出身中学校よりの成績報告と入試における学力検査の得点を調べて合否のボーダーライン上にあるとおもわれる十数名を選び出し、その中から得点数からみて改ざんし易い者三名を選んでその採点カードを改ざんした。」旨の部分がある。しかし、右赤丸を付したという受験者名簿は存在せず、証人小林豊、同小林美知はいずれも「すでに焼却ずみ」という。このことと、成立に争いのない甲第二七号証によれば、右改ざんの対象とされた三名の受験者の父兄は吉田高校三〇周年記念事業の寄附者名簿の中に登載されていないことが認められることをあわせると、右三名は後藤校長が小林豊等に父兄等より依頼を受けている者として示したという約五〇名の中に含まれていたのかどうか疑問の余地がないではない。かりに、右三名が後藤校長が示したという前記約五〇名のうちに含まれていたとしても、右三名のみにつき採点カードを改ざんすることが後藤校長の「指示」または意図にそうかどうかは問題であろう。

また、小林豊、小林美知は、「点数の数字からみて改ざんし易いものを選んだ」旨証言しているけれども、成立に争いない甲第三五号証の一ないし六と証人小林美知の証言をあわせると、得点の数字の点から改ざん可能なものはほかにもあつたことが認められるから、右甲第三五号証の一ないし六の作成者たる受験者が前記約五〇名の中に含まれていなかつたことが認められない以上、証人小林豊、同小林美知の右証言部分はにわかに採用できない。(なお、証人干潟佐内の証言によれば、昭和四四年度の吉田高校入試学力検査受験者五一三名の採点カード中、一二名(不合格者一一名、合格はしたが入学を辞退したもの一名)の採点カードが現在行方不明であることが認められるから、小林豊、小林美知の各証言の信憑性には一層疑問が投げかけられるといえる。)

ところで、成立に争いのない甲第四号証、同第二五号証および証人三浦寿雄の証言をあわせると、吉田高校では、昭和四四年度入試の際、まず庶務課において入学志願者名簿(性別・氏名・出身中学校名・受験番号等が記載されている)を作成し、これは校長、教頭のほか入学試験関係の職員すべてに配られたこと、他方数学担当の戸田教諭が作成した乱数表(合番表)があり、これによれば受験番号から合番が、合番から受験番号がそれぞれわかる仕組になつていたこと、受験者は解答用紙に受験番号と氏名を記載するが、試験が終つた時点で教務の方で受験番号をみてその合番を記入し、氏名と受験番号の記入される部分(ミシン線で他の部分と区切られている)は切離され、採点者は答案が誰のものかわからない状態で採点したこと、このほかに「採点カード」があり、解答用紙に採点した得点を記入するが、採点を記入する前の段階では合番だけが記入され、採点記入者には受験者の受験番号、氏名等がわからない仕組になつていたこと、そして、前記乱数表は作成者のほかは校長、教頭と教務主任のみが所持していたことがそれぞれ認められる。

右事実関係からすると、小林豊および同人による改ざんの対象となる者の選択に加わつた小林美知は、乱数表と受験番号を記載した受験者名簿の照合により改ざんされた受験者の氏名を知つていたと推認するのが相当である。

ところで、原告後藤博子の本人尋問の結果によれば、右点数改ざんの対象となつた三名のうちの一人は当時山梨県議会議員の地位にあつた者の子であるが、小林豊は昭和四四年三月が勧奨退職の予定時期にあたつていたため何とか退職時期を延長する方途はないか苦慮し、右議員と接触していたことがうかがえないではなく、また証人小林美知の各証言および原告後藤博子の本人尋問の結果によれば、同じく改ざんの対象となつた他の一人は小林美知と同じ部落出身でその父は小林美知と知り合いであることが認められる。そうすると、前記改ざんの対象者の選択については、小林豊と小林美知に前記弁疏するような理由以外の動機がなかつたかどうか疑問が生ずることを否定できない。

また残りの改ざん対象者に関し、成立に争いのない甲第三〇号証の三および証人衛藤太の証言によれば、右改ざん対象者の父はいとこを通じ吉田高校庶務課長に対し吉田高校への入学の依頼をしたことがあるが、後藤校長とは面識がなく同人に対し依頼したことはないこと(なお、同人は小林美知とは面識がある)、しかるに合格者発表の当夜、校長と称する者から「あなたの娘さんが落ちたことは気の毒であつたが、どうか私立校へでも一年か二年やつておけば、あとで私が責任をもつて吉高に編入させるから」との電話があつたことが認められるが、発信者が誰であつたのか、何のためにわざわざ右のような電話をしたのか、これらの点も全く不可解としかいいようがない。

(3) ところで、証人小林美知、同小林豊の各証言および原告本人後藤博子の本人尋問の結果をあわせると、吉田高校はこの年創立三〇周年記念事業として図書館建設事業を企画し、その建設資金を学区民の寄附金に求めていたが、寄附金の募金状況ははかばかしくなく、後藤校長は苦慮していたこと、そして寄附してくれた地域民の子弟の入学希望をなるべくかなえてやることが右記念事業の達成のために望ましいと考え、できうればなるべく多数これら記念事業の協賛者の子弟の入学希望に応じてやりたいという意向をもつていたことは認められるけれども、改ざんの対象とされた三名の父兄が右寄附者名簿に登載されていないことは先に述べたとおりである。

そのほか、後藤昇が右三名の者につきこれを不正入学させなければならないような動機があつたことを認めるに足りる証拠はない。

しかしながら、特定受験者につき水増採点をしこれを不正入学させるようなことは、校長の職と教育者としての名誉を賭けなければできないことであることは明らかであるから、通常金銭的利益等何らかの利益と結びつく強力な動機がなければならないと考えられるところ、後藤昇には校長の職と教育者としての名誉を賭けてまで水増し採点を指示しなければならないような強力な動機が存在したであろうか。この点にも疑問の念を禁じえないのである。

(4) 成立に争いのない甲第一〇号証および証人曾根利重、同日向誉夫の証言によれば、三月一八日曾根教職員課長が後藤昇より事情聴取をした際、「小林豊教頭と小林美知定時制主事の二人が勝手にやつたのなら二人を懲戒免職処分に付するより仕方がないだろう」といつたところ、それまで休職勧告に応じなかつた後藤昇が休職勧告に応じ、翌日休職願を提出したが、このことを教育委員会側としては、後藤昇が懲戒免職を回避する手段として休職に応じたとして後藤昇が水増し採点を指示したとの心証形成上有力な資料としたことが認められる。たしかに、右のような後藤昇の態度の変化を「クロ」の心証形成の一つの理由となると考えることも一応はもつともである。しかしながら、成立に争いのない乙第七号証および原告本人後藤博子の本人尋問の結果をあわせると、後藤昇はかねてから心臓病を患つていて休職を考えざるをえないような状態にあつたところに前記の水増し採点事件が発生したため、校長としての責任問題を絡めて休職を決意したとうかがえるふしがないでもないから、後藤昇自身に右の点につき弁解の機会を与えることなく、右の態度急変をもつて水増し採点指示を自認したと断定することは正当でない。

(5) 以上述べたところから明らかなように、後藤昇が小林豊および小林美知に前記水増し採点を指示したと断定するにはさまざまな疑問があり、なお解明すべき点が残つている。

3 帰結

したがつて、後藤昇に対し、なお公正な告知と聴問の手続をとつたならば、実体的判断を左右するような弁明と資料が提出される可能性が全くなかつたとはとうていいえないのである。

(四)  結論

そうであるとすれば、前に述べたとおり後藤昇に対し公正な告知と聴問の手続をとることがないままなされた本件懲戒免職処分は違法というほかはなく、原告らの被告教育委員会に対する本件懲戒免職処分取消請求は理由がある。

第二被告人事委員会に対する請求について

一裁決の存在と原告適格

請求原因(一)ないし(三)の事実は当事者間に争いがない。

二本案について

ところで、行政事件訴訟法第一〇条第二項は原処分を維持した裁決の取消をし求める場合は、「裁決固有のかし」を理由としてのみ取消しを求めることができるとされているところ、原告らの主張は右の要件を充たしているであろうか。

原告らは、「採証法則に違反した証拠の認定」をいうが、その意味が「採証法則に違反する証拠の採否」という意味だとすれば証拠の採否は被告人事委員会の裁量に委ねていると解されるところ、右の裁量権を逸脱濫用したという主張も立証もない。また、もしその意味が「採証法則違反の証拠による認定」という意味だとすれば、結局原処分の事実誤認を主張しているに過ぎないことになり裁決固有のかしを主張しているとはいえないから、主張自体失当である。

そうすると、原告らの被告人事委員会に対する請求は理由がない。

第三むすび

よつて、本訴請求中、被告教育委員会に対する請求を認容し、被告人事委員会に対する請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九二条本文を適用して主文のとおり判決する。

(小笠原昭夫 生田瑞穂 山田公一)

更正決定<省略>

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